先輩2人と飲みに行った時の話から学ぶ教訓

この記事では前回の記事「先輩2人と飲みに行った時の話」から学ぶ教訓を話しています。多くの人が人生で失敗してしまう要因であると思うのでぜひとも見ていってください!。

教訓

  • 依存と好きをはき違えた
  • 自己を確立していない状態で人間関係の発展に踏み出していた
  • 理想の選び方
  • 総じて自己理解の不足

依存と好きをはき違えた

このエピソードでの一番の教訓は依存と好きをはき違えていたことだ。わたしは今までの好意だと思っていた感情が依存感情であったことに気づいて「愛する」ということがどういうことなのかまるで分からなくなった。わたしは今までの偽物の「愛」から本物の「愛」を理解するために好きを恋と愛に分け、恋と愛の違いについて考えた。まずは恋について考える。現状、恋とは相手をよく知らない状態で好きなること。恋は盲目と言う言葉はまさにこのことなんだと実感した。相手のことを知ろうともしないのに自分の知っているその人を押し付けてその人を自分の中で特別なものにする。わたしは人間関係の側面的理解として「人間関係は偏見の押し付け合い」と考えている。これは互いに相手に対して無意識のうちにこうあってほしいという理想やこうあるべきだという願望を押し付けていて、その押し付けた人間像から外れたときにショックを受けたり裏切られたなどと勘違いするのではないかと考え方だ。一方で愛とは相手のことを知ってもなお好きでいられている状態である。相手が自分の知らない部分を露出しても幻滅などせず好きでい続けられる。これは盲目ではない。相手のことを多角的に見て素晴らしいところ以外にも嫌なところや駄目なところを知っても包括的に好きだと言えるのはしっかりと人として見ているということだ。これは愛とよべるのではないかと考えている。しかしどこまで相手のことを知れば愛してるということになるのかが疑問点である。ここに関しては答えは出ていないが、おそらくこれ以上彼または彼女のことを知っても自分の気持ちに変わりはないと思えることが基準点になると考えているところだ。

自己を確立していない状態で人間関係に踏み出していた。

ここでも依存の話になるが、わたしは環境に依存していた。人は誰しもが自分の中に虚無をもっている。虚無とは1人でいることへの寂しさや学歴や身長などの劣等感、自分自分として認められない感覚などだ。受けいれることが出来ない場合人と接することでその虚無を埋めようとする。ある人といるときは楽しいがその人がいなくなったとたんにつまらなくなる人は多いだろう。こういう人の多くは自分の虚無を人に埋めてもらうことで楽しんでいる。よく恋愛でこの人といると素でいられると言う話を耳にするだろう。これは、普段は素ではいられないけれども特定の相手といるときだけは素でいられるということだ。つまり、その特定の相手に自分の虚無を埋めてもらうことにより自分を確立させているということだ。

特定の条件下での自己の確立。ここでの条件とは「虚無を埋めてくれる相手がいる環境」である。そしてこの環境に執着することを依存という。

こうした関係性が悪いとは言わない。わたしが伝えたいのは常に素でいられたらそれが一番いいよねということだ。そんなこと出来るわけがないと思われるかもしれないが、実は人生で常に素でいられている時期が存在する。それは幼児の時期である。ニーチェの精神の3変化の考え方を知っているだろうか。人の精神は駱駝→獅子→幼児の順に変化するというものだ。ここで主張したいのは幼児の状態なので駱駝と獅子の説明はここでは割愛する。幼児とは精神の一つの状態を指しておりその状態は3つの要素が揃うことで成り立つ。その3つの要素とは無垢、忘却、始まりである。簡単に言うと、無垢とは基盤となるものが存在しないまっさらな状態であること、忘却とは過去に自分が築いた規範や価値観さえも忘れること、始まりとは0から1を創り上げること。まとめると自分の中に規範などの余分なものがない状態で世界を創造し更新し続けるということである。つまり、幼児というのは常に無垢の状態で世界を創造し続けることが出来る存在ということだ。

では、わたしたちが再び幼児に戻れるのかという話だが結論から言うと戻れる。もちろん物理的に戻るということではない。先程説明した通り、ここでの幼児とは精神の状態を指す。説明のとおりに考えれば、成長の過程を通して自分の中に内在化させた社会規範を忘れ、無垢の状態で世界を創造し続けることが幼児の精神状態になるということになる。しかし、わたしは内在化させた社会規範を完全に忘れ去ることはほぼ不可能であると考えている。なぜなら我々が内在化させている社会規範というのは自分でも気づかないレベルで無数に存在しているからだ。ただ、ニーチェとは少しずれたわたしの考える幼児であればなることは可能であると考えている。わたしが幼児の精神状態において最も重要だと思っている事がある、それは世界を創造するときに「自己決定」をしているという点だ。

さて、ここで1つ立ち返りたい。あなたは今、自分で選択して人生を築き上げていると自身を持って言えるか。この問いに自身を持ってYESと答えられるのならそれは素晴らしい。一方で、ほんのちょっとした疑いや違和感があるのならあなたは自分の人生を選択して築き上げているとは言えない。社会学者のミシェル・フーコーが触れていることだが、人は社会によって選択させられているという考え方がある。わたしも同感だ。簡単に言うと人は自分で考えて選択しているように見えて、実際は内在化した社会規範に従って選択しているのであってそこに自分の考えはないとする考え方である。こういうことを言われると、いやわたしはちゃんと自分で考えて生きていると思うだろうがとどまってほしい。もし、あなたが日常会話で「普通は〜」「みんなは〜」「〜すべき」というような言葉を使っているのであれば自分の考えを持っているとは言えない。なぜなら、こうした言葉には自分の考えと周囲の考えとの境界線が存在していないからだ。この境界線がない人は意外と多い。かくいうわたしも前まではこの境界線がなく「〜すべき」と言う考え方を持っていた。今でも抜けきれてない部分がある。こういったものは周囲に合わせた考え方であるため自分の考え方とはとても言えない。もしあなたが先程挙げた日常会話のフレーズを使っているのなら規範に飲まれていると言える。そうしたフレーズが出たら内在化した社会規範の存在を疑い外在化させよう。内在化ではなく外在化した社会規範であれば自分がそれを選ぶかどうかの決定ができる。

すなわちわたしの考える幼児とは社会規範をなくした状態ではなく、社会規範を外在化させ自己選択・自己決定のもと世界を創造し続けていくことである。ここがニーチェの幼児の考え方との違いだ。そして、こうして自分の世界を築くことで自己を確立し、虚無を埋めてもらうための人間関係を求める必要がなくなる。

理想の選び方

わたしは恋愛サロンに参加するときの基準を大いに間違えた。わたしはこの恋愛サロンの存在を知る前から自分の理想とは反することばかりやってきていた。簡単に言えば前項で説明した社会規範に縛られて正しさで動いていたというやつだ。それで後悔することも多かったため、これからは自分の理想を目指して動くことが理想の人生に近づく道だと考えた。わたしはこの頃彼女を作って人生を充実させたいと思っていた。彼女が欲しいがためにユーチューブでいろんな動画を漁った。そのときに出会ったのが今回挙げている恋愛サロンだ。先述したようにその恋愛サロンではハーレムは男の夢であると語っていた。ハーレムは確かにその昔に憧れていたものでもあったので共感した。そしてサロンの主催者は美女とのハーレムを実際に築いている人でそれも非モテから成り上がっていたためわたしもそうなれるのではないかと希望を持った。そうして入会のためのカウンセリングを受けた。しかし説明を受けた後に入会することに心に大きな引っ掛かりを感じた。「入会すれば彼女が作れるのは確信できるしハーレムも築けるかも知れない。でも本当にこれでいいのか?今断ってもまだチャンスはあるんじゃないか?」と思ったが「ここを逃すともう入れない」と言われ、この機を逃すともう彼女を作れる機会がないんじゃないかと思い入会を決意した。そして教えのとおりに恋活を進めた。デートにこぎつけることもあったが自分を生きてる感じがせず熱意がどうにも乗らなかった。そのうちに先輩2人との飲み会を経て恋活を辞めることにした。

ここでの教訓は過去の理想を今の選択に用いたことである。文字通り過去と今を混同しているわけでなぜこのような選択をしてしまったのだろうと後悔している。

自己理解の重要性に気づいた

このエピソードでの教訓で共通しているのは自分に対する理解が不足していたことである。わたしは彼女もいなければ友達もいなかったので人との関わりをずっと求めていた。しかし、わたしは自己否定感が強く人と繋がれるなど思っていなかったので積極的に動こうとはしなかった。そのため愛情の不足が続いた。それに気づいてはいたがそれを埋めるための手段が人とつながることしか思いつかなかったから道を間違え続けた。自己を確立するという考えにたどり着かず依存の関係性を無意識に求め今の自分を見なかったから理想の実現をはき違えた。しかし、こうした間違いが続いたからわたしは自己理解の重要性に気づいた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました