わたしは小学生ぐらいの頃に親から習い事として空手を推奨され毎週2回道場に通っていた。最初から別にやる気があるわけではなかった。ただ、親が「将来自分の身を自分で守れるように」という名目で空手を勧めていたので必要なことなんだなと思い始めた。
惰性で始めた空手。自分ではそういう認識だったが親の認識は違う。親から叱られる、怒鳴られることは多かった。親は子どもに「しっかりと頑張れるいい子」「先生方の言うことをしっかり聞いて教えのとおりにやる子」のような姿を期待していたのだと思う。こうした自分の子供はまともであるという認識を持っていたのだろう。だから、着替えに時間がかかり練習前の準備運動に遅れると更衣室まで来て怒鳴りに来たり、突きをする時などに気合を入れるための「あいっ!」「はっ!」などの声を出せていなかったらあとでスリッパで頭を叩かれたりもした。一番印象に残ってるのは黒帯に昇級した後のことである。黒帯の子が黒より下の帯を巻いた子たちを先導し列を整えるという黒帯の役割があったのだが、わたしは列の整え方が分からなかった。もちろん黒帯になる前から黒帯を巻いた先輩に先導してもらっていたから、見て学んでいた。しかし、他人に出来ることが自分にも出来るとは限らない。わたしはいまいちやり方が掴めず見様見真似でやったがうまく出来なかった。そして師範より壁際に座らされた。その光景を見た親は稽古の後「なんであんな事もできへんのや!!」とひどく怒った。わたしは「出来ないもんは出来ないんやから仕方ないやん」とは思っていたもののそれを口にすることは火に油を注ぐ行為だと分かっていた。だからただ黙り込んで怒りが止むのを待った。
起こるときはだいたい稽古が終わった後の道場内だった。人の目がある。その中で怒鳴られるんだから「恥ずかしいな。早く終わらないかな。」と何度も思った。
そんなことが繰り返されるうちに空手をすることがより嫌いになっていった。
時が経つにつれて親はわたしの稽古を参観することはすくなくなり送り迎えのみするようになった。稽古が終わった後、親が迎えに来るまでの間道場内にある図書コーナーで漫画を読むのが習慣になった。ちなみにその時ハマっていたのは漫画版の「東海道中膝栗毛」だ。作中のセリフで「お湯沸かしといて」に対し「おゆを沸かしたら湯気になっちまうよ」と返答していたシーンが、屁理屈でいて正論でいてすごく気に入っていたのを覚えている。今思えば、親の重い期待から逃れるためにこういった斜めな回答が気にったのかもしれない。
そんな中ある日迎えた空手の試合。普段の道場の中で同じ流派の複数の団体が集う小さな大会だった。わたしとしては面倒くさくて出たくもなかったがそんなことを口にすれば親が不機嫌になるに違いないと思ったので渋々参加した。親としては勝ち進むことを期待していたようだがわたしはすぐに負けて試合が終わるまでの間適当に時間を潰したいと考えていた。とはいえあからさまに手を抜くと後で何か言われるかも知れない可能性があるので全力でやってる風に手を抜いた。狙い通りに負けることが出来た。後から負けたことについていろいろと言われた。怒られることはなかったが反省の形で話をした。
親の期待というのは子どもにとっていつでも重たいものだ。ほとんどの親は子ども自身を見ずに自分の理想の姿を子どもに求める。その姿に当てはまれば褒めるし当てはまなければ叱る。こういった親にとって子どもというのは自分の理想を叶える願望機に過ぎない。そうやって育つ子どもは程度の差はあれ自分を抑圧してしまう。自分を抑圧して周囲の期待に応えることが善いことだと刷り込まれる。そうなるのが嫌だから小さな反抗としてわざと負けた。いつだって自分のペースで過ごしていたい。いまでもそう思っている。もしそう在ることが社会不適合者であるというのならわたしは自分を貫いて社会不適合者になる。

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